事実、私は毎日、死に直面しています。このことは、あなたがたの主にある成長を私が誇るのと同じように、確かなことです。
しかし、ユダが口をはさみました。「忘れたのですか、お父さん。『弟といっしょでなければ来てはならない』とあの人が言ったのは、決してただの脅しではないのですよ。ベニヤミンがいっしょでなければ、あそこへは行けません。」
わたしは、おまえたちの先祖をエジプトから助け出した時から今日まで、繰り返し、『わたしのすべての命令に従え』と言い続けてきた。
ただわかっているのは、行く先々の町で投獄と苦難が待っていると、聖霊が告げてくださったことだけです。
聖書にこう書いてあるとおりです。 「神のためには、いつでも 死ねる心がまえでいなければならない。 私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」(詩篇44・22)
私たちは、どんな場合でも、自分の知恵に頼らず、助けてくださる主に信頼し、きよさと誠実さをもって行動してきました。特にあなたがたに対しては、そのようにふるまってきました。胸を張ってそう言うことができます。
彼らはキリストに仕えていると言うのですか。しかし、私はもっと仕えてきました。こんなに自慢をする私は、気でもおかしいのでしょうか。 私の労苦は彼らの比ではありません。投獄されたこともかなりの回数に及び、むち打たれたことは数えきれず、何度も死に直面しました。
しかし、神に感謝します。神様は、キリストの働きのゆえに、私たちを勝利の行進に加えてくださいました。今、神様は私たちを通して、キリストの福音の香りを放ってくださいます。
肉体の一部を切り取りさえすれば、神の子どもになれるのではありません。霊をもって神を礼拝する者こそ、神の子どもなのです。その礼拝こそが、ただ一つの真の「割礼」です。クリスチャンが誇れることと言ったら、キリスト・イエスがなしてくださったみわざだけです。自分で自分を救うことなどとてもできないと、よく知っているはずです。
私たちに希望と喜びを与え、誇りの冠となってくれるものは、いったい何でしょうか。それはまさに、あなたがたなのです。そうです。主イエス・キリストが再び来られる時、御前で大きな喜びをもたらしてくれるのは、あなたがたなのです。
あなたがたが与えてくれた喜びを、どれほど神に感謝したらよいでしょう。
願うとおりにしてやるがよい。ただし、王を立てることがどういうことか、よくよく警告しておきなさい。」