キリストが私をお遣わしになった目的は、バプテスマを授けさせることではなく、福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を宣べ伝えさせるためです。私の説教は貧弱に聞こえるかもしれません。難しいことばを使ったり、高尚な考えを述べたりしないからです。それは、キリストの十字架の教えの単純さに込められているすばらしい力を、そんなもので薄めてはならないと考えているからです。
さて、イエスのもとにはぞくぞくと人々が詰めかけました。バプテスマ(洗礼)を受けて弟子になった者の数はヨハネよりも多いといううわさが、パリサイ人たちの耳に入りました。イエスはこのことを知ると、
――もっとも、実際にバプテスマを授けていたのはイエス自身ではなく、弟子たちでしたが――
ペテロは、キリスト・イエスの名によって、バプテスマを授けました。コルネリオはペテロに、数日間、泊まってほしいと頼みました。
愛する皆さん。私が初めて皆さんのところへ行った時、神のことばを伝えるのに、難しいことば遣いをしたり、高度な理論をふりまわしたりはしませんでした。
この賜物について話す時、私たちは、自分が人間として選んだことばではなく、聖霊によって教えられたことばを使ってきました。つまり、聖霊のことを説明するには、聖霊のことばを用いるのです。
私たちは、どんな場合でも、自分の知恵に頼らず、助けてくださる主に信頼し、きよさと誠実さをもって行動してきました。特にあなたがたに対しては、そのようにふるまってきました。胸を張ってそう言うことができます。
こう言う人もいます。「パウロの手紙なんか気にするな。偉そうなことを言っても口先だけで、実際に会ってみればよくわかる。いかにも頼りなげで、話もへただ。」
たとえ口べたであっても、少なくとも、自分が話している内容はよく知っています。それは何度も証明してきたことです。
信じさせるために、あれこれたくらむようなまねはしません。だましたりしたくないのです。書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることもしません。そのような恥ずかしい方法は用いません。語る時には、神の前に立って真実を語ります。私たちを知っている人はみな、このことを認めてくれるはずです。
主イエス・キリストの力と再臨(キリストが再び地上に来られること)について話してきましたが、それは、私たちがうまく考え出した作り話ではありません。私はこの目で、キリストの輝きと栄光をはっきり見たのです。