何のために、例の教師たち(使徒15・1)が、あなたがたに割礼を受けさせようと図るのかわかりますか。その理由はただ一つです。すなわち、そのようにして評判や人気を得て、迫害を免れたいからです。その迫害とは、キリストの十字架が唯一の救いの道であると認めるなら、必ず受けるものです。
ああ、いまわしいパリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。あなたがたは美しく塗り立てた墓のようです。外側がどんなにきれいでも、中は死人の骨や汚らわしいもの、腐ったものでいっぱいです。
自分を聖人らしく見せようとしているが、その外見とは裏腹に、心の中はあらゆる偽善と罪で汚れているのです。
彼らのやることと言ったら、人に見せびらかすことばかりです。幅広の経札(聖書のことばを納めた小箱で、祈りの時に身につける)を腕や額につけたり、着物のふさ(神のおきてを思い出すために着物のすそにつけるように命じられていた)を長くしたりして、あたかも聖者であるかのようにふるまいます。
神の御心に従ったために迫害されている人は幸いです。神の国はそういう人のものだからです。
次に断食についてですが、偽善者たちのような、人目につくやり方は避けなさい。彼らは、やつれた顔をわざと見せつけ、同情を買おうとします。よく言っておきますが、そういう人たちは、もうそれで、報いを受け取ってしまったのです。
貧しい人にお金や物を恵む時には、偽善者たちのように、そのことを大声で宣伝してはいけません。彼らは人目につくように、会堂や街頭で大げさに慈善行為をします。いいですか、よく言っておきますが、そういう人たちは、もうそれで、報いは受けているのです。
ここで、祈りについて注意しておきましょう。人の見ている大通りや会堂で、さも信心深そうに祈って見せる偽善者のように祈ってはいけません。よく言っておきますが、そういう人たちは、もうそれで、報いを受けてしまったのです。
そんな彼らに、イエスはおっしゃいました。「あなたがたは、人前ではいかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし神は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、賞賛を受けても、神には憎まれるのです。
うわべは、さも信心深そうに、長々と祈りますが、実際は、未亡人をだまして財産をかすめ奪おうとしています。こういう人々には、神から最もきびしい罰が下るのです。」
自分の意見だけをまくし立てる人は、実はわが身がほめられたい一心なのです。しかし自分をお遣わしになった方の栄誉を求める人は、正直者です。
パウロとバルナバがアンテオケにいた時のこと、ユダヤから来た人たちが、「古いユダヤの慣習どおり割礼を受けなければ救われない」と教え始めました。
しかし、主イエスを信じる以前はパリサイ派だった人たちのうちの何人かが立ち上がり、外国人といえども、クリスチャンになった以上は割礼を受け、ユダヤの慣習や儀式を残らず守るべきだと主張しました。
自分はすぐれた人物だと自己宣伝をする人がいますが、私はそのまねをするつもりはありません。彼らはただ、お互いに比較し合ったり、つまらない尺度で自分を評価したりするのです。なんと愚かなことでしょう。
彼らは、決して神から遣わされた者ではありません。「詐欺師」です。キリストの使徒だと思い込ませるのです。
私はそれを見て、彼らが自分の信じていることに対して不誠実であり、救いの教えの真理に従っていないことを知りました。 そこで、みなの面前で、ペテロに言ったのです。「あなたは生まれながらのユダヤ人であっても、もうずっと前から、ユダヤ教のしきたりに束縛されないで生きてきたではありませんか。それなのに、どうして急に、ここの外国人にそれを守らせようとするのですか。
彼らは、それを承認してくれました。そればかりでなく、ギリシヤ人であった、私の仲間のテトスにも割礼(男子の性器の包皮を切り取る儀式)を強要しませんでした。
よりによってこの私が、割礼やユダヤ教のしきたりが、救われるための必要条件だと教えていると言う者がいます。しかし、もしそうなら、私は迫害されることなどないはずではありませんか。そういった教えには、だれも腹を立てませんから。私が今なお迫害されているという事実こそ、私が今も、キリストの十字架を信じる信仰によってのみ救われると教えている証拠なのです。
そうした、割礼を主張する教師たちは、割礼以外の律法は守ろうとしません。それなのに、あなたがたに割礼を強要するのは、弟子をふやして誇るためなのです。
もっとも中には、神が私をこのように用いてくださるのをねたんで、福音を宣べ伝えている人もいます。彼らは、勇敢な伝道者という名声がほしいのです。しかし、もっと純粋な動機から伝道している人もいます。
自分のことばかりにとらわれるのではなく、他の人のことにも目を向けなさい。
というのは、今までも、しばしば語ってきたことですし、今また、涙ながらに訴えたいのですが、クリスチャンとして歩みながら、実はキリストの十字架に敵対している者が多くいるからです。
このような規則は、自分を規制するきびしい礼拝とか、謙遜とか、肉体の苦行などを伴うので、いかにもすぐれたもののように思われがちですが、それによって、人の心に忍び込む、悪い思いや欲望に打ち勝つことはできないのです。それは、その人を高慢にするだけです。