したがって、律法によってはだれ一人、神の恵みを受けることはできないわけです。神の前で正しい者と認められる道は信仰による以外にない、と神様は言っておられます。預言者ハバククが、「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と語ったとおりです。
罪を犯さない人間などいませんから、あなたに罪を犯し、あなたのお怒りをこうむって、外国に捕虜として連れて行かれることもあるでしょう。
「私は何の値打ちもない者です。 どうして答えることができましょう。 口に手をあてて黙り込むだけです。
私は、つくづく自分がいやになり、 ちりと灰の中で悔い改めます。』」
神と正面から議論しようと思ったら、 人は千の質問のうち、一つも答えることはできまい。
私を裁判にかけないでください。 あなたほど完全なお方はいないのですから。
しかし人は、心にひそむ罪を どうして知ることができましょう。 どうか、隠れた罪からきよめてください。
この世界には、いつも品行方正で一度も罪を犯さない人など一人もいません。
私たちは神の道を離れ、 羊のようにさまよい出て、 自分勝手な道を歩いてきました。 しかし神は、私たち一人一人の罪を 彼に負わせたのです。
私は恐ろしくなって、思わず叫びました。 「もうおしまいだ。 口の汚れた罪深い民に属する口の汚れた私が、 天の軍勢の主である王を見てしまったのだから。」
私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、 悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、 しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。
今から言うことをよく聞いておけ。 このカルデヤ人たちがそうするように、 悪者は自分だけを信頼して失敗する。 だが正しい人は、わたしを信頼して生きる。
この福音は、私たちがキリストを信じる時、神が私たちを天国に入るにふさわしい者、すなわち、神の目から見て正しい者としてくださることを教えています。それは、初めから終わりまで、信仰によって達成されるのです。「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2・4)と、聖書に書いてあるとおりです。
しかし、私たちユダヤ人クリスチャンにしても、律法の行いを守ることによって神の前で正しい者と認められたのではありません。ただ、罪を取り除いてくださるキリスト・イエスを信じる信仰によって認められたのではありませんか。だからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは律法によってではなく、信仰によって神に認められるためです。律法の行いを守って救われる人など、一人もいないのですから。」
神の前に義と認められる人たちは、信仰によって生きるのです。しりごみするような人を、神は喜ばれません。
父なる神の目から見て、純粋で汚れのない信仰とは、みなしごや未亡人が困っていれば世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
また、ことばを制御できる人は、すべての点で自分を完全に制することができる人です。
彼らは新しい歌を、高らかに歌っていました。「あなたこそ、巻物を受け取って封印を解き、それを開くのにふさわしい方。あなたは殺されましたが、その血によって、あらゆる民族の中から、神のために、人々を買い取ってくださいました。