主はこう尋ねます。「わたしが、悪者の死ぬのを見たがっているとでも思うのか。わたしは、彼が悪の道から離れ、正しく生きるようになることしか願っていない。
私どもはみな、いつかは死ななければなりません。人のいのちは地面にこぼれた水のようなもので、二度と集めることはできません。もし王様が、追放中のご子息をお迎えになる道を講じなさるなら、神様の末長い祝福がありましょう。
全能者の力を推し量ることはできない。 しかし、神はこの上なく正しく、 思いやりにあふれているので、私たちを滅ぼさない。
しかし、主を敬い、その愛と恵みを待ち望む人々を、 主はことのほかお喜びになります。
神のお答えはこうです。 「エフライムは今でもわたしの子だ。 かけがえのない子であることに変わりはない。 罰を加えないわけにはいかないが、 それでもなお、彼を愛している。 いとおしくてたまらないので、必ずあわれみをかける。
主は意味もなく人を苦しませ、 悲しませたりはしません。
わたしは、あなたがたが死ぬことを喜ばない。悔い改めなさい。悔い改めて、生きるのだ。」神である主がこう語るのです。
彼らに告げなさい。神である主がこう語る、と。わたしは生きている。わたしは悪者どもの死を喜ばない。それどころか、悪者が悪の道から悔い改めて生きるようになることを願っている。さあ帰って来なさい。悪の道から離れ、立ち返るのだ。ああ、イスラエルよ。なぜ、そんなにも死にたがるのか。
ああ、わたしのエフライム。 どうして、あなたを捨て去ることができよう。 どうして見放せよう。 どうして、アデマやツェボイム (ソドム、ゴモラと共に滅びた町)のように 見捨てることができよう。 わたしの心は叫んでいる。 何としても、あなたたちを助けたい。
あなたのような神が、ほかにいるでしょうか。 あなたはご自分の民の中で生き残った者の 罪を赦してくださいます。 あわれみを好み、 ご自分のためをいつまでも怒ってはおられません。
同じように、一人の罪人が罪を悔いて神のもとに帰った時、天使たちはたいへんな喜びにわくのです。」
考えてもみなさい。あれはおまえの弟なのだよ。死んだと思ってあきらめていたのが、無事に帰って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、お祝いするのはあたりまえではないか。』」
神はすべての人が救われて、真理を理解するに至ることを切に望んでおられます。
思いやりのない人には、思いやりのないさばきが下ります。しかし、あわれみ深い人には、神のあわれみがあるのです。
再び主がおいでになるという約束がなかなか実現しないので、いったいどうなっているのかと思うかもしれません。しかし主は、いたずらに日を延ばしておられるのではありません。一人でも滅びないように、すべての人が悔い改めるために必要な時間を与えようと、忍耐して待っておられるのです。