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ローマ人への手紙 7:7 - ALIVEバイブル: 新約聖書

7 私が、神の掟を悪いとでも言っていると思うか? とんでもない! 掟が悪いわけじゃあない。私は掟によってなにが悪いのかが分かるようになった。 もし、 「心に邪悪な欲望をいだいてはならない」―― 【聖書:出エジプト記20:17、申命記5:21より引用】 という掟がなければ、私は、自分の心にある過ち、すなわちそこに潜んでいる邪悪な欲望に気づかなかっただろう。

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Colloquial Japanese (1955)

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

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リビングバイブル

7 私が、律法は悪いものだと言っていると思いますか。絶対にそんなことはありません。それどころか、律法が私の罪を明らかにしてくれたのです。もし、「むさぼってはならない」(出エジプト20・17)という律法がなければ、私は自分の心にあるむさぼりを知らなかったでしょう。

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Japanese: 聖書 口語訳

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

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Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

7 そうすると、あなた達はこう思うだろう・・・「それじゃ、過ちと掟って一緒なの?掟って過ちなの?」と・・・もちろんそんなことはない!しかし掟は過ちが何なのかを学ぶ唯一の方法なのだ。要するに、もし掟がなければ他人の物を欲しいと思って盗むことが悪いことであると誰も教えてくれない。掟ではこう言っている。 「他人の所有物を盗んではいけない」——【出エジプト記20:17; 申命記5:21より引用】

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ローマ人への手紙 7:7
30 相互参照  

さて、もうわかっただろうか? 掟の命じることを実行し、神に正しい者と認められようとしても無駄なあがき。 私たちが神の掟を知れば知るほど、自分がどれだけ守れておらず、ダメなのかが明らかになるだけだからだ。神の掟はただ、私たちの自己中さを自覚させる。


神の掟を守ることで救われようと努力しても、神の怒りの鉄槌が下されるのがオチ。 なぜなら、神の掟を守ることで受け入れてもらうことは不可能だからだ。 掟を破らないためには、破るような掟を持たないに限る。


過ち、すなわち死をもたらすとげは、ことごとく切り取られる。 そして、過ちをあばく掟も、もはや私たちを裁きはしない。


自分ごとのように隣人を愛すなら、人を傷つけたり、だましたり、殺したり、盗んだりしようと思わないからだ。 「また他人の妻と寝るとか、他人のものを欲しがるとかいった、十戒で禁じられていることは、何一つしないだろう」―― 【聖書:出エジプト記20:13-15, 17より引用】 このように、十戒はすべて、 「自分ごとのように隣人を愛しなさい」―― 【聖書:レビ記19:18より引用】 という一つの掟で解決なのだ。


ところが過ちは、この掟を逆利用し、私たちの中で邪悪な欲望をかき立てた。 破るような掟さえなかったなら、過ちに力などなかったのだ。


神と関係を持っていない人たちのように、性奴隷になってはいけない。


ところが、ある人たちはこんな理屈をこねる。 「私たちが過ちを犯せば、神様の正しさが際立つのだから、罰せられるなんて不公平じゃないか」


間違った生き方に終止符を打つんだ。自身の中にある、この世のものを絶つんだ!性的な罪、わいせつ、欲望に心を奪われたり、この世のものに依存したり・・・自分、自分、自分のためにあらゆるものを求めることは、偶像礼拝同然だ!


みなさんの間で性的な過ちなど、あってはならない! すべての面で不純と思われることがないように。 性欲に溺れ、また物欲に駆られることがないように。 神の民はそんな過ちとは、完全に無縁でなければならない。


では良いものが私を死においやったことになるのだろうか? とんでもない! 良い掟をもちいて、私を死においやったのは罪だ。 罪がどんなにずる賢く、恐ろしく、いまわしいものか、わかるだろう。 良い掟を使ってここまで悪どいことができるのだから。


罪は私をだましたのだ。気づかないうちに死へと導かれていた。


以前、私たちは自分という自己中な性質に支配されていた。 掟の影響で悪さに手を出したくなったのだ。 その欲望が体を完全に操作するので、死をもたらす過ちばかり犯した。


それならどうしたらいいのか? 掟の下ではなく、恵みの下にいるのだから、過ちを犯し放題、やりたいことをやりまくれることになるのか? とんでもない!


では、我々の先祖アブラハムについてはどうだ?


みんなと共にしたとき、金や銀、衣服をくれと頼んだことも無ければ、欲しいとさえ思ったこともない。


「気をつけろ!自己中心的な欲望から自分を護れ!!持ち物を増やしても、心の足しにはならない。


だが私は言おう。 みだらな思いで女性を見るなら、その時点で姦淫だ!


ぶどう園にすっ飛んでいって農夫たちを殺し、他の人を雇うだろう」 「そんなのあんまりだ!」 「こんなことがあってはならない!」 例え話を聞いた群衆はそう口にした。


神の掟が与えられて人の自己中さは悪化した。 人は自分がいかに神の標準にほど遠い存在か、よくわかるようになったのだ。 しかし、私たちは、自分の自己中さを知れば知るほど、その罪を赦してくれる神の恵みがどんなに大きいのか、いっそうわかる。


問題は、モーセの掟では誰も完璧になれなかったことにある。 しかし、今は違う。私たちは、遥かに勝る希望を与えられた。 イエスのおかげで、堂々と神に近づけるのだ!


私たちに従ってください:

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