Biblia Todo Logo
オンライン聖書
- 広告 -




ヘブル人への手紙 7:19 - ALIVEバイブル: 新約聖書

19 問題は、モーセの掟では誰も完璧になれなかったことにある。 しかし、今は違う。私たちは、遥かに勝る希望を与えられた。 イエスのおかげで、堂々と神に近づけるのだ!

この章を参照 コピー

Colloquial Japanese (1955)

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

この章を参照 コピー

リビングバイブル

19 だれも、祭司によっては神との正しい関係を結べなかったのです。しかし、今は違います。私たちは、もっとすぐれた希望を与えられています。キリストによって神に受け入れられた私たちは、神に近づくことができるのです。

この章を参照 コピー

Japanese: 聖書 口語訳

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

この章を参照 コピー

Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

19 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

この章を参照 コピー

ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

19 モーセの律法の問題点は、何事もうまく完璧にはならなかったことだ。しかし今、よりきらびやかな希望が私たちに与えられた。この希望とは、私たちに自信を与え、大胆に神へと近づくことが出来る希望だ。

この章を参照 コピー

聖書 口語訳

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

この章を参照 コピー




ヘブル人への手紙 7:19
29 相互参照  

すなわち、私たちは預言者モーセをとおして掟を与えられ、 イエス・救世主をとおして、恵みと真理を与えられた。


「真理と生命である、俺が道だ!!! 俺を通らずして、父さんのもとに行けるものはいない!!!


掟はあなたの罪を取り除けなかった。しかし、イエスを信じるならその罪悪感から解放される!!


私たちが信じたことで、救世主が神の恵みへの道を開いてくれた。 おかげで、私たちはこの最高な特権を祝い、楽しんでいる。 いつか見る、神の栄光の日を心待ちにして。


私が、神の掟を悪いとでも言っていると思うか? とんでもない! 掟が悪いわけじゃあない。私は掟によってなにが悪いのかが分かるようになった。 もし、 「心に邪悪な欲望をいだいてはならない」―― 【聖書:出エジプト記20:17、申命記5:21より引用】 という掟がなければ、私は、自分の心にある過ち、すなわちそこに潜んでいる邪悪な欲望に気づかなかっただろう。


神の掟を知っているだけでは、過ちの支配から救い出されることがない。 人間の弱さがゆえに、私たちを救い出すには掟は力足らずだったのだ。 ところが、神は私たちを救うために、別の計画を実行に移された。 つまり、神の一人子を、私たちと同じ体を持つ者として、この世に遣わしたのだ。 そして、彼を私たちの過ちのためのいけにえとした。神は人のいのちを使い、“過ち”に死刑宣告を下したのだ。


だが、私たちユダヤ人であるイエスの信者だって、掟を守ったからではなく、ただ罪を取り除いてくれたイエス・救世主を信頼することでのみ、神に認められたのではないか! だから私たちもイエス・救世主を信じたのだ。 それは、掟によってではなく、イエスへの信頼によって神に認められるため。 私がこう断言するのは、掟を守って救われる人など1人もいないからだ!


とすると、神の掟と約束とは、互いに対立するのだろうか。 そんなことはない。もし私たちが、掟によって救われることができたのであれば、それで事はすんだ。 過ちの力から逃れる別ルートを用意してもらう必要はなかった。


言い替えるなら、掟は、救世主が来て救ってくれるまで子どもの監視役を務める奴隷だった。しかし来たからには、用なしだ―― 【当時は子どもが13歳から14歳になるくらいまで、家の主に仕えていた奴隷が子育てを任されていた】


救世主に属すがゆえに、恐れず、自由に神の前に出ることができる。それは自分ではなく、救世主の従順さを信じているからこそだ。


神は、この隠されていた真理がどれだけ壮大で、豊かなのかを明かしてくれたのだ!それだけじゃない、それがすべての人種のためにあるのだ!さて、この隠されていた真理は、イエスがあなたのうちに住んでくれる、というものだ!イエスのみを通して神の栄光をわかちあえる!


私たちを救った王、神であり、また唯一の希望であるイエス・救世主より任命された使徒パウロより


掟による古い制度は、来たるべき素晴らしい存在を暗示したに過ぎず、本物を完全には表せていない。 律法は毎年同じ生け贄を捧げるようにとある。神を礼拝する者は、それらの捧げ物を繰り返しささげる必要があったが、いつまでも掟が彼らを完全にすることはできなかった。


彼らが待ち望んでいた報いは、最高峰の財宝であり、神も、やがては、それを与えるつもりだった。それは、神が今、私たちのために差し出しているイエスという名の財宝だ。


信仰なしに神を喜ばすことは出来ない。 神のもとへ行きたければ、神の存在を信じ、熱心に神を求めるなら必ず報われることを信じなければならない。


しかし、救世主は、神の家のいっさいの統治を息子として従順にこなしている。この誇り高き最高な希望に自信を持ち続けるなら、私たちが神の家なのだ。


だから、迷わず、思いきって、神の王座に近づいて情けを求め、必要な時に必ず与えられる恵みを、いただこうではないか!


神は、約束と誓いの両方を与えてくれた。この2つは、全面的に信頼できる。 神は嘘をつかないからだ。 その為、救いを求めて神のもとに逃れて来る人たちは、確かな保証をもらって、新たな勇気を奮い起こすことができる。 そして、神の救いの約束を、少しの疑いもなく信じられるのだ。


もしユダヤ人の祭司と掟に、私たちを救う力があるとしたら、なぜ神は、あえてアロンの位に等しい祭司ではなく、メルキゼデクの位に等しい祭司である、救世主を立てたのだろうか―― 【ユダヤ人の祭司はすべて元祖アロンの位を受け継いできたのだ】


神は誓いをもって、イエスを永遠の大祭司として立てた。


また、自分を通して神のもとに来る人たちを、1人残らず、完全に救うことができる。 永遠に生きているイエスは、いつも神のそばで、自分の血によって彼らの犯した過ちが帳消しになっていることを、神に思い起こしてくれるのだ。


しかしながらイエスが任された仕事は、祭司たちの仕事をはるかに勝る。イエスが神から人のために持ってきた新たな条約もまた、古い条約をはるかに勝る。 そして新たな条約はより良い約束にもとづいていているのだ。


これは、現在の私たちへの大切な教訓だ。 なぜか?それは、古い制度のもとで供え物といけにえが幾度ささげられても、それを携えて来る人たちの心まで、きよめることはできないからだ。


神に接近すれば神も接近する。 神と世の中の快楽の両立という罪に染まった者よ。 足を洗え!考えを改め、


私たちに従ってください:

広告


広告