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コリント人への第二の手紙 5:17 - ALIVEバイブル: 新約聖書

17 だれでも、イエスの信者になると、神によってその世界が新しくされる。今までの世界観はなくなり、新しいものを得る。

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Colloquial Japanese (1955)

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

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リビングバイブル

17 だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。

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Japanese: 聖書 口語訳

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

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Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

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ERV 訳 ー 読みやすい聖書 ー(新約聖書)

17 救い主の中にいる人は誰でも新しく創られた人だ。古いものはどっかへ行ってしまった。ほら!全てが新しくなった!

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聖書 口語訳

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

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コリント人への第二の手紙 5:17
46 相互参照  

「良い実を生らせたければ、良い木を育てなければならない。 あなたの木が腐っていれば、腐った実しかならない。 実った、その実を見て、なんの木か分かる。


やがてこの世は、天も地もひっくるめて滅びる。だが俺のコトバは永遠だ・・・!!!」


新しいワインは新しい革袋に入れるのがお決まりだ。


俺が復活する時、おまえたちは、父さんの中に俺がいて、俺の中におまえたちがいて、またおまえたちの中に俺がいることがわかるようになる!


父さんは、実のならない枝をみな切り落とし、実のなる枝は、もっとたくさんなるように、余分な枝を刈り込んで整理する。


そう、俺がぶどうの木で、おまえたちはその枝なのだ。 人が俺のうちに生き、俺もその人のうちに生きていれば、その人は実をいっぱい結ぶ。俺を離れては何もできない。


俺が彼らのうちにおり、あなたが俺のうちにいて初めて、みな完全に1つになるのだ。その時、世間は、あなたが俺を遣わしたことを知り、俺だけでなく彼らをも愛していることを、認めざるをえなくなるのだ。


「保証する、もう一度生まれない限り、神の国に入れはしない・・・!!!」


「信じろ!だれでも水と神の霊によって産まれないないかぎり、神の国に入れはしない。


それに、アペレがいる。救世主によって認められているりっぱな人だ。 よろしく伝えてくれ。またアリストブロの家で働いている人たちによろしく。


私の親類ヘロデオンに、そしてナルキソの家で働いているイエスの信者奴隷の人たちにもよろしく。


プリスカとアクラによろしく。この夫婦は、私の同労者として、イエス・救世主のために働いてきた。


それから、私の親類で、私と共に投獄されたこともあるアンドロニコとユニアスがそちらにいる。 彼らはみなから尊敬された使徒たちであり、私よりも先にイエスの信者になった人たちだ。 どうぞ、この2人にもよろしくと伝えてくれ。


また、私の同労者ウルバノと、愛するスタキスとにもよろしく。


しかし、もう掟に縛られる必要はないのだ。 掟に縛られていた間に、みなさんは一度“死んだ”のだから。 昔のように、一連の規則に機械的に従うのではない。 今は神の霊と共に神に従うのだ。


だから、今やイエス・救世主に属する人は、死刑宣告から免れているのだ。


というのは、みなさんをイエス・救世主に繋げたのは神であり、救世主が私たちに与えられた神からの知恵となったのだ。 イエスのおかげで、神に認められ特別な者とされ、罪から解放されたのだ。


子どものころの私は、子どものように話し、子どものように考え、子どものように判断した。しかし、大人になってからは子どものような考えに幕を閉じた。


14年前、私は天に引き上げられた男の聖なる幻をみた。私なのか、それとも誰かの魂を見ただけなのか、なんてことは、聞かないでくれ。私にはわからない。


だから、世間の評判や、外見の良し悪しで、イエスの信者を評価するのはやめろ。 以前私は、その誤った考え方で、救世主のことを単に自分と同じ人間とみなしていた。しかし今では、その考えは一変した。


つまり、神は救世主をとおして、世の人間と平和を結んだ。 神に反した過ちを犯したすべての人間に“赦し”をオファーした。 そしてこの平和の最高な知らせを広めるようにと、伝言が託された。


というのは、神は、過ちのない救世主に私たちの過ちを背負わせ、それと引き換えに、私たちに恵みを注いでくれたからだ。


もはや、ユダヤ人とギリシヤ人、奴隷と自由人、男と女というような区別はない。 みな同じイエスの信者であり、イエス・救世主にあって1つなのだ。


イエス・救世主から永遠のいのちをもらった私たちにとって割礼を受けたかどうか、ユダヤ教の掟を守っているかどうか、など全く関係ない。 私たちに必要なのは、愛によって生まれる神への信頼のみ。


割礼を受けているかいないかは、今や、全く問題ではない。 問題は、私たちがほんとうに神の作った新しい世界の住人となれるのかどうかである。


私たちをこのように造り、イエス・救世主によって新しくしてくれたのは、神だ。この新しい生活は、神がずっと以前から計画してくれたものであり、私たちが良い働きを行うためのものなのだ。


イエスがたくさんの命令と規則ある掟に幕を閉めた。神に選ばれし民イスラエルと、その他の人間をイエスにあってひとつなぎとし、新たな人類へと造るのが目的だったのだ。こうしてイエスにあるひとつなぎの平和が実現したのだ。


追伸 そちらにいるイエスの信者全員によろしく伝えてくれ。 こちらの教会からもよろしくとのこと。


私たちに従ってください:

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